おばちゃんが一度東京へ帰る日が来た。
ひいおじいちゃんの様態しだいでまた戻ってくるかも…とみんなどこかで思いながらも…。
なっちゃんはおばちゃんと別れるとき、「今日は泣かへんもん。」と1月に来たときにおばちゃんとお別れするのが嫌で泣いたことをしっかり覚えていていたみたい。(笑)
おばちゃんは東京へ帰った。
そんな夜、今日は子供たちも8時に寝た。
めずらしく。早い。
ほっと落ち着いて、しばらくしたら父からの電話。
ひいおじいちゃんの様態がよくないらしい。
病院へ行くにもいけず、おっとくんの帰宅を待つ。
10時過ぎに家を出て、病院へ。
10時4分にすでにひいおじいちゃんは亡くなっていた。
最初は聞いたときは涙も出なかったけど、しばらくすると涙が止まらず泣けてきた。
姉が電話で、「ずっとしんどがっていたから、今はしんどくなくなってよかったんだよ。」
と言ってくれた。
病院へお見舞いに行って、「何が食べたい?」と聞いて、空に指で書くおじいちゃん。
私には「しにたい。」とカタカナで書く字がわかった。
まわりのみんなが「なんて?」と聞いたけど、そんなこと言えないよ~。
日曜日におまんじゅうとバナナを持っていったときにおじいちゃんはバナナをしんどそうに食べて、水も飲んでくれた。
しゃべることはできなかったけど、私がバナナも水も食べさせてあげれた。
その後は、眠っているおじいちゃんしか見ることができなかったけど、その日があったから、死に目には会えなかったけど、よかったかなって。
その日、おじいちゃんが手に巻いた白いミトン(チューブなどをとらないように病院側がこちらの承諾をとってつける)のまんま帰り際に手を振ってくれたことはずっと忘れない。
ずっとずっと手を振ってくれている姿が目から離れない。
心配かけないようにおじいちゃんは姉を一端返してのかな。
うちのおっとくんの仕事も本当は1月から仙台に行っているはずだったのに、延期して仕事に隙間をあたえてくれたおかげで私自身も病院に行きやすくなった。
これもおじいちゃんだったのかな?
父の仕事もだんどりがついた後でなくなったおじいちゃん。
かっこ悪いことが大嫌いで、97歳なのに、車椅子に乗るのも本当は嫌だったはず。
写真撮るときは車椅子から降りていたよね。
だから、本当は病院で手術して、みんなにそんな姿を見られるのも嫌だったんだろうね。
でも、おじいちゃんが手術を受けてくれたから、13日間しんどかったかもしれないけど、みんなが気持ちの準備できたんじゃないかな。
少なくとも私はそうだったよ。
13日間毎日一人になったら涙が出てきて、おじいちゃんがいなくなるであろうことを想像すると涙が止まらなかった。
面会にはじめていったときは悲しくってしゃべることもできなかった。
でも、ちゃんと最後はおじいちゃんに話もできるようになった。
ちゃんとお別れも自分の中でできたよ。
車を運転していたら、もうおじいちゃんが乗ることがないのかなぁとか、実家に行ったら、いっつもいるおじいちゃんがいないのかなぁと考えると怖くて実家にも行きたくなかった1週目。
子供たちに対しても気を紛らわせようと明るく振舞ったり…。
空元気で、病院へ行く前はいつも心臓がどきどきして、寒気もして…。
悪太郎の背中が出ているのをいっつも気にしていたおじいちゃん。
高いシャツ(値段が高いと背中が見えないと思っていた?)買ってやってや~。
なっちゃんを見て、「ほんま、この子はかわいいなぁ。」と言っていたおじいちゃん。
ふとお風呂に入っていて、なっちゃんが湯船につかるときに危なくなったとき、いつも階段の下で子供たちが上って行くのを心配そうに見ていたおじいちゃんのことを思い出した。
いっつもいっつもいろんなことを心配してくれたおじいちゃん。
病院にいるときだって、補聴器、めがね、入れ歯、時計はわかるけど、なぜか財布まで注文した。
おじいちゃんらしいな。
最後まで意識がしっかりして、痴呆がはいるかもとも言われたけどそんなこともなかったのが本当におじいちゃんらしいなと。
天国でおばあちゃんと33年ぶりに再会できたかな。
おばあちゃんやっと迎えに来てくれたね。
ほんとおばあちゃんの命日の翌日だったもんね。
本当にありがとう。おじいちゃん。
ひいおじいちゃんの様態しだいでまた戻ってくるかも…とみんなどこかで思いながらも…。
なっちゃんはおばちゃんと別れるとき、「今日は泣かへんもん。」と1月に来たときにおばちゃんとお別れするのが嫌で泣いたことをしっかり覚えていていたみたい。(笑)
おばちゃんは東京へ帰った。
そんな夜、今日は子供たちも8時に寝た。
めずらしく。早い。
ほっと落ち着いて、しばらくしたら父からの電話。
ひいおじいちゃんの様態がよくないらしい。
病院へ行くにもいけず、おっとくんの帰宅を待つ。
10時過ぎに家を出て、病院へ。
10時4分にすでにひいおじいちゃんは亡くなっていた。
最初は聞いたときは涙も出なかったけど、しばらくすると涙が止まらず泣けてきた。
姉が電話で、「ずっとしんどがっていたから、今はしんどくなくなってよかったんだよ。」
と言ってくれた。
病院へお見舞いに行って、「何が食べたい?」と聞いて、空に指で書くおじいちゃん。
私には「しにたい。」とカタカナで書く字がわかった。
まわりのみんなが「なんて?」と聞いたけど、そんなこと言えないよ~。
日曜日におまんじゅうとバナナを持っていったときにおじいちゃんはバナナをしんどそうに食べて、水も飲んでくれた。
しゃべることはできなかったけど、私がバナナも水も食べさせてあげれた。
その後は、眠っているおじいちゃんしか見ることができなかったけど、その日があったから、死に目には会えなかったけど、よかったかなって。
その日、おじいちゃんが手に巻いた白いミトン(チューブなどをとらないように病院側がこちらの承諾をとってつける)のまんま帰り際に手を振ってくれたことはずっと忘れない。
ずっとずっと手を振ってくれている姿が目から離れない。
心配かけないようにおじいちゃんは姉を一端返してのかな。
うちのおっとくんの仕事も本当は1月から仙台に行っているはずだったのに、延期して仕事に隙間をあたえてくれたおかげで私自身も病院に行きやすくなった。
これもおじいちゃんだったのかな?
父の仕事もだんどりがついた後でなくなったおじいちゃん。
かっこ悪いことが大嫌いで、97歳なのに、車椅子に乗るのも本当は嫌だったはず。
写真撮るときは車椅子から降りていたよね。
だから、本当は病院で手術して、みんなにそんな姿を見られるのも嫌だったんだろうね。
でも、おじいちゃんが手術を受けてくれたから、13日間しんどかったかもしれないけど、みんなが気持ちの準備できたんじゃないかな。
少なくとも私はそうだったよ。
13日間毎日一人になったら涙が出てきて、おじいちゃんがいなくなるであろうことを想像すると涙が止まらなかった。
面会にはじめていったときは悲しくってしゃべることもできなかった。
でも、ちゃんと最後はおじいちゃんに話もできるようになった。
ちゃんとお別れも自分の中でできたよ。
車を運転していたら、もうおじいちゃんが乗ることがないのかなぁとか、実家に行ったら、いっつもいるおじいちゃんがいないのかなぁと考えると怖くて実家にも行きたくなかった1週目。
子供たちに対しても気を紛らわせようと明るく振舞ったり…。
空元気で、病院へ行く前はいつも心臓がどきどきして、寒気もして…。
悪太郎の背中が出ているのをいっつも気にしていたおじいちゃん。
高いシャツ(値段が高いと背中が見えないと思っていた?)買ってやってや~。
なっちゃんを見て、「ほんま、この子はかわいいなぁ。」と言っていたおじいちゃん。
ふとお風呂に入っていて、なっちゃんが湯船につかるときに危なくなったとき、いつも階段の下で子供たちが上って行くのを心配そうに見ていたおじいちゃんのことを思い出した。
いっつもいっつもいろんなことを心配してくれたおじいちゃん。
病院にいるときだって、補聴器、めがね、入れ歯、時計はわかるけど、なぜか財布まで注文した。
おじいちゃんらしいな。
最後まで意識がしっかりして、痴呆がはいるかもとも言われたけどそんなこともなかったのが本当におじいちゃんらしいなと。
天国でおばあちゃんと33年ぶりに再会できたかな。
おばあちゃんやっと迎えに来てくれたね。
ほんとおばあちゃんの命日の翌日だったもんね。
本当にありがとう。おじいちゃん。
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